Background金虎と焼津鰹節
焼津鰹節が生まれた背景
鰹節の燻製法は、17世紀前後紀州熊野から高知周辺で始められたといわれています。
鰹節を生業とする者の気持ちとして、獲れた鰹を腐敗から守り、如何に利用するかは、必須の課題であるわけで、燻乾法、塩蔵法などは、自然に試みられた製法と考えたほうが自然と思われます。17世紀中後期になると鰹節は、土佐藩の専売品として大阪に送られ、大阪の問屋から全国に販売されます。江戸にも大阪から送られるのですが、冷蔵庫のない時代でカビが発生するため、その対策として燻乾を強め、青カビを発生させ、腐敗かびの防止にあたりました。
カビにダニが発生するため、天日乾燥を繰り返し、その繰り返しが鰹本枯節になっていくのですが、カビ付けされた鰹節を食べた江戸ではその鰹枯節の美味しさに気づきます。
しかし、荒節にカビをはやすと、節の隙間のカビを洗い落とすことができないなど、カビ付け節ならではの技術的な課題に直面することになります。そのようなニーズが江戸の鰹節商のニーズになってくると思われますが、土佐は、遠く、情報伝達の不便な時代、ニーズに対応した鰹節が作られることがなかったように思われます。そこに、紀州熊野の鰹節職人の通称、「土佐の与一」が、房州に現れ、その技術を19世紀初頭、伊豆の安良里、田子に伝えます。江戸のカビ付けニーズを江戸から近い田子の人々は答えていき、田子節の評価は上がっていたと思われます。しかし、田子の生産量は少なく、増産するにも、原魚の供給量が少ない田子は、需要にこたえるために、駿河湾を挟んで、対岸の焼津の荒節を買い付け、それを削りカビ付けにすることにより、供給量を補っていったように思われます。明治10年ごろまで、田子からの買い付けは続いていたようです。
ところで、江戸時代を通じ、焼津は小規模の漁村として、近隣の宿場町、藤枝や、岡部、駿府などに魚を売り歩き、それはそれで成立するため、鰹節のような手のかかるものを本業として取り組む気配がありませんでした。それでも、残る鰹は生利節に、さらに乾燥すると鰹荒節になっていったように思われます。その荒節を田子が買い付けていくと、当時の焼津の水産業者の中には、それらの荒節をカビ付け加工することにより付加価値の付く、鰹節になることに気づき、鰹節作りに挑戦するものが現れてきます。明治12年ごろには、焼津は、荒節を田子に売ることから、下田、南伊豆から荒節を買い越すことに立場が変わってきています。しかしながら、東京の鰹節商の評価は低く、焼津節は「はなはだ粗雑なり」と低評価に焼津鰹節職人の開発魂に火をつけていきます。当時未完成な鰹本枯節を、技術革新し、
完成度の高い焼津鰹節として成立させていきます。明治30年帝国内博覧会において、焼津鰹節は、一等賞の評価を得て、名実ともに、最高の鰹節としての評価を得ていきます。
明治22年4月の東海道線開通で焼津は水産の街として劇的に発展を遂げます。漁場から近い焼津が交通の利便性から大消費地の市場を獲得し、焼津の水産業の発展を背景に大量の鰹が水揚げされていきます。原料の供給、技術革新による完成度の高い鰹節、鉄道による市場の独占、これらの要素が日本一の鰹節の産地に焼津を変容させていきます。
日露戦争を経て、大正期に入り、日本は、高度経済成長期を迎えます。同時に鰹節の需要は拡大し、焼津においては、鰹節産業の勃興期を迎えます。
金虎の鰹節について
そのような時代に、当社初代寺尾虎吉は自ら鰹節製造を目指します。40代の虎吉には、高度な鰹節製造技術は習得しがたく、腕利きの鰹節職人仁作を婿に迎え、大正3年鰹節製造を始めていきます。2代目寺尾仁作が金虎の鰹節を創業したといえるわけです。鰹節工場を建設するにあたり堀川を挟んで対岸の田畑の広がる新地に工場を完成させるのですが、間もなく近隣に芝居小屋ができ、商店街が形成されると焼津一の繁華街になっていきます。
これが現在の我が社の本社にあたるわけですが、表通りを鰹節店として裏では鰹節を製造していきます。商店街に鰹節店を構えることにより、直接末端の消費者と触れることになり、そのことが削り節の早期の参入につながっていきます。削り節の製造も大正期に製造を始めています。また、消費者と直接かかわることが当社が事業の多角化の原点のように感じます。
戦前戦後を通して、焼津の水産業も動乱と苦悩の歴史を経ていきますが戦後も昭和26年の焼津港の築港により、焼津の水産業は戦後の復興期から成長期へと転換していきます。日本経済の高度成長に伴い、日本が豊かになり食生活が改善すると、鰹節の消費は著しく拡大していきます。昭和40年代に入ると、遠洋航海により鰹漁業の周年操業の時代を迎え一年中大量の鰹が水揚げされると同時に、鰹節製品の消費が爆発的に増加していきます。現在の日本人は過去のどの時代人よりも鰹節を消費する時代を迎えています。当社三代目寺尾仁作は、その鰹節大量消費の時代を迎え、供給体制の整備、鰹節の技術研究にまい進していきます。最初に手掛けたのは、鰹の表面削り機の開発です。
鰹節のカビ付けには、燻製の表面の黒くなった部分を削り取りカビが生えやすいように削る必要がありました。それまでは、鰹節職人による小刀での表面削りが主流で、技術の習得に長い年月がかかるのと何より生産量が少なく大量の供給に問題がありました。ドラムにサンドペーパーを巻き、回転するドラムで、鰹節の表面を削ることにより、滑らかで光沢のある鰹節を作ることができるようになり、表面削り機械を開発することにより、現在は、主流の製法になっています。次に手掛けたのが、鰹の生切りの機械化です。手作業で行っていた生切りを機械による頭切り機の開発は、その後の機械化の先鞭をつけることになりました。さらに、鰹節の燻製法の技術革新に進み、現在の焼津式乾燥機は、大量の鰹節生産にはなくてはならない機械として、業界に広く使用される燻製乾燥機械になっています。現在、三代目の発明による機械を使用せずに鰹節を使用することが、難しいほど鰹節の技術革新に寄与したのですが、その技術は焼津鰹節組合を通じて広く業界に技術開放したことが、今日の鰹節業界の発展に寄与したことは、疑いありません。